水谷歯科医院 

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院長のおいたち

   院長のおいたち

立ち上がりは緩くとも、コツコツと粘り強くNEVER GIVE UP!
決して土俵を割らない男でした。

 

🎬 院長ストーリー

昭和の夕暮れ。
西日が差し込む六畳の部屋に、ひとりの少年が机に向かっている。
窓の外では、遠くの国道を走るトラックのエンジン音が響き、
高度経済成長の熱気が街を包んでいた。

少年の家は、いつも静かだった。
父は会計事務所を営み、決算期には深夜まで帰らない。
母も家業を手伝い、
少年は温め直した味噌汁をすすりながら、
ひとりで夕食をとることが多かった。

「働くって、こういうことなんだ」

幼いながらに、そう自分に言い聞かせていた。

父は、実直そのものの人だった。
曲がったことが大嫌いで、
酒も飲まず、たばこも吸わず、
女性の影など一度も聞いたことがない。
まるで“正しさ”だけでできたような男だった。

少年は、そんな父の背中を見て育った。
だが、父とは違う道を歩むことになる。

学校では、目立つタイプではなかった。
口数が少なく、感情を胸の奥にしまい込むような少年。
でも、ひとつだけ誰にも負けないものがあった。

粘り強さ。

競馬なら、第3コーナーから突然伸びる馬。
マラソンなら、37キロ地点の上り坂で急にスパートをかけるランナー。
派手さはないが、最後に必ず追い込む。
そんな不思議な力を持っていた。

手先は器用だったが、
人生の歩み方は不器用だった。
思いを言葉にできず、
伝えたいことが伝わらず、

悔しさを飲み込んだ夜もあった。

それでも、少年は静かに決めていた。

「誰かの痛みを取り除ける人間になりたい」

その想いが、彼を歯科医師の道へ導いた。

歯科医師になってからも、
父から受け継いだ“真っすぐさ”は変わらなかった。

患者さんの不安に寄り添い、
必要な治療だけを丁寧に行い、
安心して通える医院であること。

派手な宣伝も、過度な治療もいらない。
ただ、目の前の人の人生に寄り添うこと。
その積み重ねこそが、自分の生き方だと信じている。

Never give up.

少年の頃から胸に刻んできた言葉は、
今も変わらず、彼の背中を押し続けている。

そして今日もまた、
診療室の光の中で、
ひとりの患者さんの不安をそっと受け止める。

あの日、ひとりで夕食を食べていた少年の心と、
今の自分は、確かにつながっている。




歯科医を志す経緯…


  🎬 院長ストーリー|(母の一言で人生が変わった)

小さい頃、私は機械いじりやプラモデルが大好きでした。
特に「戦艦大和」の細かいパーツを組み立てていると、時間を忘れるほど夢中になっていました。

テレビもあまり見ず、家族との会話も少ない静かな少年。
国語や社会は苦手で、古文に至っては「これ、本当に日本語?」と思うほど。
古文の授業中に、こっそり数Vを解いていたこともありました。(先生、ごめんなさい…)

父は会計事務所を営んでおり、家業を継ぐには文系科目が必須。
高校では英語が得意で塾講師を目指していましたが、両親の反対にあい断念。
当時の私は「今なら誰が何と言おうと…」という気持ちもありましたが、
昔の人間の感覚で、親に逆らうことは“天皇に逆らうようなもの”だと思っていたのです。

そんな中、医学界は華やかさを増し、
「白い巨塔」「美容外科の発展」「医療最前線」などが話題に。 

私は思いました。 

「そうだ、人の役に立つ仕事に就こう」

数理英の3科で私立医大には合格しましたが、どうしても国立には届かず。
悩んでいたある日、母がふとこう言いました。

「タカシ君、歯はどう?
医師も素晴らしいけれど、歯も人間の健康を支える大切な臓器よ。
私は今、食事がうまくできなくて困っているの。」

その一言が、私の人生を変えました。

「そうか、歯で人を助けることもできるんだ」

私は歯科の道へ進むことを決めました。

あの日、戦艦大和の細部に夢中になっていた少年は、
今、患者さんの口元の“細部”に向き合いながら、
誰かの人生を支える仕事をしています。

母の一言が、私の人生を導いてくれました。
そして今、私はその“言葉の力”を、患者さんの笑顔に変えていきたいと思っています。

                                            

 


生涯現役を目指し、今後も学び続けていきたいと思います。
皆さま、引き続きよろしくお願いいたします。

 



歯科医師になってからは…


🎬 院長ストーリー|逆境篇

歯科医師になってからの私は、
まるで別世界に放

り込まれたような日々を過ごしていました。

医学界には、今では考えられないほど古い仕来りが残っていました。
当時は“従弟制度”が色濃く残り、上下関係は絶対。
新人は人として扱われないことも珍しくありませんでした。


ある日、診療室に響く怒号。

「こんな役に立たないペーパー医師など用はない!」
「早くやれよ、水谷!日が暮れるぞ!」
「なにをぐずぐずしてるんだ、早くしろ!」

心を刺す言葉は、毎日のように浴びせられました。


極めつけは、
「スカートでも履いて水でも吸ってろ!」
「ここは開業医だぞ!お前に払う金が勿体ない!」

その瞬間、胸の奥がズキリと痛んだ。

悔しさ、情けなさ、怒り、無力感——
あらゆる感情が渦巻き、
“生き地獄”という言葉が頭をよぎるほどでした。


しかし、その先生は技術だけは本物でした。
誰よりも早く、誰よりも正確で、誰よりも美しい治療をする。

私は心の中で静かに呟きました。

「そうか……。
ここで技術を盗んで、必ず追いつき、追い越して、
同じ土俵に立ってみせる。」


その時の私は、まさに徳川家康の心境でした。
屈辱を飲み込み、歯を食いしばり、
ただただ“臥薪嘗胆”の精神で毎日を耐え抜いた。

技術を盗むためなら、どんな罵声も受け止めた。
どんな雑用も、どんな無茶ぶりも、
「これが自分の糧になる」と信じて食らいついた。

そして今、振り返って思うのです。


あの時の捨て身の覚悟と、
必死に食らいついた日々こそが、
今の私の技術と精神力を作ってくれた。

あの“地獄のような毎日”がなければ、
今の私はいない。


あの頃の自分に、
そっとこう伝えてやりたい。


「よく耐えたな。あの努力は、全部未来の患者さんの笑顔につながっているよ。」




開業医になり…

「閉院テナントからのスタートと、そこから学んだこと」

ある材料屋さんの紹介で、閉院したテナントビルを居抜きで購入し、私の歯科医人生はスタートしました。
しかし、現実は想像以上に厳しいものでした。

配管はボロボロ、エアコンは故障。
チェアは一台潰れており、治療どころではない状態。
毎日が修理と対応に追われ、苦痛の連続でした。

けれども、すべてを確かめずに始めたのは自分の責任。
「医院を経営するとは、大学では教えてくれない世界なのだ」と痛感しました。

支部会への入会でも、この業界にはこの業界の道筋があることを知らず、諸先輩方にご迷惑をおかけしたことも、今では大切な学びです。

その後、世の中はバブル全盛期。
“イケイケドンドン”の空気の中、売上は右肩上がり。
銀行からは
「ゴルフ会員権はいかがですか?」
「金は今が買いですよ!」
「株なら●●が狙い目です!」

と、次々と甘い誘いが舞い込みました。

人間、足元が見えなくなると本当に怖いものです。

バブル崩壊後、資産は一気に消え、
追い打ちをかけるように高級車セルシオが盗難。
家庭では連日、妻からの責め苦。
生きた心地のしない日々でした(笑)

それでも、父から教わった
「苦あり楽あり」
「転んでもただでは起きるな」
という言葉を胸に、もう一度自分を見つめ直し、なんとか浮上してきました。

あの頃の経験は、今の私を支える大切な土台になっています。




「院長が考える“名医”とは、自分が受けたいと思える治療を患者さまに提供することです。」

「医療に必要なのは、技術だけではない」

今の私のような半人前が言うのはおこがましいかもしれませんが、
医療の世界でいま最も不足していると感じるのは、
“相手を思う気持ち”
そして
“病んでいるのは、あくまで一人の人間である”
という当たり前の視点です。

もし医師が、患者さんを自分の家族のように思い、
その痛みや不安に寄り添うことができれば、
お互いのギクシャクした関係はもっと少なくなるはずです。

どれほど「日本一の医療技術」と言われても、
技術面と精神面の両方が整ってこそ、
本当の意味での“名医”だと私は思います。

まだまだ人生の途中にいる未熟者ですが、
これからも 患者さんに育てていただく姿勢 を忘れず、
「相手の立場に立つ」「相手の目線で見る」
この心構えを大切にしていきたいと思います

そして、
おごらず、あせらず、あなどらず。
この三つを胸に、一人ひとりの患者さんと向き合っていきます。

患者さんに育てていただいているという感謝の気持ちを忘れず、
これからも当院を温かく見守っていただければ幸いです。


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「皆さまとの信頼関係を大切に、丁寧な診療を続けてまいります。」     






















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